玉ねぎと私


昨日玉ねぎを切った。さらし玉ねぎである。もちろん薄くスライス状に切った。涙が出てくる。痛い。辛い。 切れ味のいい包丁で切ると涙が出ないという話を聞いた。すっぱりと切ると、涙を出す成分を出すことがないのだろう。だがあいにく切れ味が悪いらしい。よく切れる包丁を買ったほうがいいのかな…切れ味の悪い包丁だとかえって怪我しやすいって言うし、まだ料理初心者の僕にはどんな包丁がいいのかはわからいけど、自分の包丁がほしいなぁ…

次の日、また玉ねぎを切ることになった。実はかなりの玉ねぎ好きである。炒めても、生でも。友人Kは壮絶な玉ねぎ嫌いで、どんなに小さく刻まれた玉ねぎでさえも、的確に料理の中から排除する。目の前で彼のテクをみたが、ここまでくればある意味職人技である。ある日、あまりにも小さく刻まれていたためか、玉ねぎに気づかずに玉ねぎを食べてしまったところを私は目撃してしまった。 その瞬間彼は、吐き出しそうになり、その日一日中彼は元気がなかった。どうやら彼の口には、どんなに小さく切っても玉ねぎを瞬時に発見することができる玉ねぎセンサーがついているらしい。そんなことはどうでもいいのだが、とにかく玉ねぎはあの涙が嫌いだ。ただでさえ最近泣き上戸なのに、もう十分だ。

水中めがねで目を保護すれば完璧だろう。鼻と目はつながっているらしいから、ティッシュで鼻に栓をすればより完璧だろう…だが、これは明らかに料理をしている姿ではない。それ以前にまったく説明のつかない格好である。それだけは避けたい。普通の眼鏡なら特に問題はないだろう。視力はかなり悪いから、むしろ眼鏡をしたほうが都合がいい。しかしただの眼鏡だと横から玉ねぎ光線が目に入らないだろうか?玉ねぎ光線とは、涙を出させる目に見えない何かである。玉ねぎ→眼鏡→目 というのが直線上にあるとする。このとき目は痛くなるだろうか?もし痛くなったとすれば玉ねぎ光線は回折すると言え、もし痛くならなければ玉ねぎ光線は回折すると言える…(回折とは波が障害物の後ろに回り込むことである。音とかは回折しているのがイメージしやすい)

はたして玉ねぎ光線は匂いのように回折するだろうか?匂いが回折する呼ぶのは適当でないかもしれない。ミクロな匂いの成分が、ミクロな空気分子に無秩序に衝突しているからこそ、おならの匂いは回折するように広がっていくのである。回折するのであるならば、眼鏡は無意味であることは明らかである。もし目が痛くならなかったら、それは玉ねぎ光線が直線的に発射されると言うことだ。こんなことを考えながら、玉ねぎ光線にびくびくしながら玉ねぎを切った…

どうやら目が痛くない。玉ねぎ光線は直線的にやってくるらしい。これは物理的にどういうことなのだろうか。 もし空気がなかったら、匂い成分の分子は回折しないで直線的にやってくるだろう。つまり玉ねぎ光線が真っ直ぐ来ると言うことは、玉ねぎ光線は空気分子と衝突という相互作用をしない、と言える。 若しくは無視できると言うことだろう。それはどういうことかと言えば、玉ねぎ光線は目に見えないにしてもその大きさは空気分子とは比べ物にならないほど大きいとこの実験より言えるだろう。

なんか初めに比べて急に堅苦しい物理的になったかと思われる方もいるとおもうが、それはわざとである。なんでかというと…まあいいや。けど、ほんとに身近な玉ねぎ光線というわけのわからないものについて知ろうとして、そのための実験をする。ある自分の結論をだす。たとえそれが間違っていてもかまわない。そしたらまた考えればいいさ…こういうのは、研究室で最先端の実験をしているのとさほど変わらないように感じるのは僕だけだろうか?




とっぷぺーじ